独自路線を進んだ北朝鮮

正式国名は朝鮮民主主義人民共和国。民主主義という国名がついていながら独裁国家でその権力は未だに世襲で続いています。金日成の時代は、みんなが貧しい時代ということもありましたが、金正日の時代に経済の悪化は国内はもとより世界中に報道されるようになりました。金正日の時代に亡命者も激増しています。

金日成はソ連の支援を取り付けていわばお飾り的に指導者に祭り上げられましたが、東西の冷戦などを背景に北朝鮮はどんどん独自の路線を進んでいくことになりました。

日本の統治時代から朝鮮戦争

日本が統治していた時代は、北朝鮮地域は豊富な地下資源と水力発電に適する山岳地帯が多いという特徴から、重化学工業が発展していました。日窒コンツェルンが建設した興南の化学コンビナートや、日本製鐵が兼二浦に建設した日本製鐵兼二浦製鉄所はその代表的な重工業です。

平野の部分が多い現在の韓国地域では農業や軽工業が発展していき、朝鮮半島の重化学工業の8割以上が北朝鮮地域で、農業生産や軽工業の約6~7割が韓国地域で生産されていました。朝鮮半島の地域によって産業の発達状況に差が見られたことは、第二次世界大戦後に分断された南北双方の経済発展に悪影響を与えることになりました。

朝鮮戦争へ

1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦が終了します。日本の統治下にあった朝鮮半島は、北緯38度線を境に南側はアメリカ、北側はソ連の占領下に入りました。

朝鮮半島北部で権力を固めていったのは、ソ連から帰国した金日成を中心にしたパルチザン(共産党系の非正規軍)グループでした。金日成たちはソ連の支援を受けながら朝鮮半島北部の社会主義化を押し進めていきます。

まず最初にしたことは土地改革でした。1946年(昭和21年)3月に、今まで地主や日本人そして宗教団体などが所有していた土地を無償でどんどん没収していきます。そして貧農や小作人に分配していきました。この土地改革はわずか20日という非常に短期間のうちに遂行されていったために、地主たちが抵抗するには時間的余裕がない状態ということあり、そして多くの地主が社会主義体制を嫌って南側のアメリカ占領地域に逃げていたということもかさなって、改革に対する抵抗は比較的少なくすることができました。

5ヵ月後の8月には重要産業国有化法令が公布されて、鉱山、鉄道、大規模な商業施設といった、これまで主に日本人が所有していた主要な産業施設が無償で没収されることになり、没収した産業施設はすべて国有化されました。北朝鮮では中央の指令に基づいた経済の運営を行う、指令型計画経済の「社会主義化」が急ピッチで進められていきました。

1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)には単年度の経済計画が施行されていき、経済の再建を進めていきました。農業そして鉱工業ともに、生産高は順調な伸びを見せていき、1949年(昭和24年)からは2カ年計画をスタートさせて、ソ連の技術援助や借款を受けて更なる産業全般の発展を図ることになりまましたが、1950年(昭和25年)6月の朝鮮戦争勃発によって、2カ年計画は中断されることになりました。

朝鮮戦争の影響

1950年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮戦争は3年余り続き、1953年(昭和28年)7月に休戦になりました。

この3年間の戦争では、朝鮮半島のほぼ全域が戦場になったため、北朝鮮の産業基盤は深刻な被害となりました。朝鮮戦争が休戦した年の工業生産は戦争前の1949年(昭和24年)の64パーセントに低下していて、戦争によって肥大化した軍需産業部門以外は軒並み2割程度に落ち込んでいました。

また北朝鮮全土の多くの耕地は戦災で荒れてしまったため、所有者が不在となり耕作できなくなった農地も多くなり、耕地全体の4分の1の農地が耕作困難となっていました。そして戦争によって数10万人以上という多くの人命が失われたこともあります。おまけに北朝鮮側から韓国側への移住者も多数生じたため、朝鮮戦争後の北朝鮮では労働力の不足というのもとても深刻な問題になりました。

朝鮮戦争は北朝鮮経済に対して直接的な影響だけではなく、間接的にも大きな影響をもたらしました。まず戦争するための戦費の多くがソ連からの借り入れによってまかなわれていたこともあって、戦費の返済を行わなければなりませんでした。

そして一番の大きな影響は朝鮮半島の分断が固定化したことで、北朝鮮は常に韓国側と対峙する立場に立たされたことです。韓国との軍事的緊張下に置かれた北朝鮮は常に軍事力の強化に努める必要に迫られていて、現在に至るまで軍事関連に多額の出費を継続することになりました。

また朝鮮戦争の時に軍需物資不足に悩まされた経験から、軍需産業の基盤となる重工業偏重の産業政策を採用する一因にもなりました。南北分断ということは、北朝鮮経済のゆがみの大きな要因を作ることになりました。

朝鮮戦争が終結した翌年1954年(昭和29年)~1956年(昭和31年)にかけて、北朝鮮は戦後復興3カ年計画を行っています。この計画では一番優先したのは重工業ですが、それと同時に農業と軽工業の発展を図ります。農業部門については個人農経営から農民を協同組合に加入させる社会主義的集団化を進めることにしました。

鉱工業に関しては、朝鮮半島北部には豊富な地下資源が埋蔵されているため重工業化に適していたこと。そして軍需工業の基盤として重工業を重視する必要性もあったため重工業優先の経済政策を採ることが決定しました。戦争終結直後で北朝鮮住民が生活に苦しんでいる状況の中で、消費財を中心とした軽工業ではなく重工業優先の政策を採ることについて強い反対意見がでましたが、金日成たちは反対者を排除していき、重工業偏重の鉱工業政策が遂行していくことになりました。

農業の集団化については、朝鮮戦争によって労働力や農業に必要な物資が不足している状況の中で、個人経営では農業のすみやかな復興に限界があったということもありますが、他の社会主義国では農業用機械を中心とした農業生産手段が十分に行き渡った状況が農業集団化の前提とされたのに比べて、当時の北朝鮮の状況は農業生産手段が絶対的に不足していたため、農業集団化にも反対意見が噴出しました。

農業集団化のスピードは他の社会主義国と比較しても極めて早く、集団化開始した後3年の1956年(昭和31年)には80パーセントを越えて、1958年(昭和33年)には100パーセント集団化を達成しています。

朝鮮戦争からの復興期にみえたことは、北朝鮮経済の特徴に二つの要素が明らかとなったことです。まず第一は『自立的民族経済建設路線』です。

自立的というのは、外国に頼らずに生産手段と消費財を自力で賄うことを目指した路線です。朝鮮戦争の時には、全ての資材を外国からの輸入に頼っていたため、開戦後輸入がストップしてしまうと、兵器生産が止まってしまったことからの反省によるものでした。この自立路線は中ソ対立などの外的要因や金日成の対立者の排除を通してさらに強化されてき、それはやがて主体思想へと進化していくことになりました。

もう一方の要素は、自立的民族経済の確立とは矛盾する『巨額の援助によって北朝鮮経済を支える状況』が作り出されたことです。朝鮮戦争で大きな被害となった北朝鮮は、ソ連や東欧諸国そして中国からの援助を受けつつながらの、重工業中心の産業復興を進めていくことになりました。

巨額の援助効果もあって3カ年計画は順調に遂行されていき、計画を上回る速さで北朝鮮は戦後復興を果たしていきます。この戦後からの復興に、ソ連や東欧諸国からの援助は1989年(平成元年)の社会主義圏の崩壊と1991年(平成3年)のソ連崩壊まで続きました。

そして中国からの援助は、今でも北朝鮮経済を支える大事な柱の一つになっています。そして在日朝鮮人の帰国運動によって帰国した人々に対して日本に残っている親族からの援助も経済を支えているのも事実です。1990年代半ば以降行われている西側諸国からの食糧援助などで北朝鮮を常に支えた事実は、外部からの援助に頼る北朝鮮経済の実情を表しているといえます。