黄長燁

北朝鮮からの亡命者の中で、北朝鮮での地位が一番高かった人は黄長燁(ファン・ジャンヨプ)でしょう。黄長燁が韓国に亡命したことを聞いた金正日は烈火のごとく怒り犬以下の獣だ!と責めたそうです。当然、北朝鮮からすると裏切り行為に他ならない黄長燁の亡命を受けて、金総書記は黄氏の親族3000人を一斉検挙して、強制労働収容所に収監しました。

人物像

1923年2月7日に北朝鮮で地主の家庭に生まれていますが、平壌出身とも咸鏡道(カンキョウドウ)出身ともいわれています。

黄長燁は北朝鮮独自の理念チュチェ思想の普及に努めた人物でもあり、金日成総合大学総長や朝鮮労働党中央委員会委員にも就任したこともあったため間違いなく北朝鮮の高官に就いていました。

とても上品な日本語も話すことが出来ますが、戦争前に中央大学法学部で学んでいたこともあって日本語でのインタビューで日本語で答えることもできます。中央大学を中退して平壌に戻ってから母校でもある平壌商業学校の数学そ珠算の教師をしていました。

その後当時のソ連(現ロシア)のモスクワ大学へ留学して哲学博士号を取得。ソ連から帰国後金日成総合大学で教鞭をとり、1965年に金日成大学総長に就任しています。北朝鮮のエリートや選ばれた人民でない限り、金日成大学へ進学することは不可能とうこともあるため、金日成大学の総長を務めるということは黄長燁も北朝鮮でのエリート街道を歩いていました。

1970年に朝鮮労働党中央委員会委員に就任していますが、この時期に金日成の側近として働き金日成が演説したり論文を発表するゴーストライターをしていたのでは。とも言われています。

黄長燁亡命

黄長燁が亡命したのは、一般的な亡命者のルートとは違います。北朝鮮の高官でチュチェ思想の理論家でもあり政治家という立場だったため、チュチェ思想に関する講演をするために来日した1997年に、帰路は中国北京経由での北朝鮮へ帰国する途中の北京で、秘書と一緒に韓国大使館へ赴き亡命を申請しました。

当然、韓国政府も黄長燁の立場もよく分かっているだけに、黄長燁ほどの高官が亡命するということは金正日体制が非常に不安定な自体になっているのでは?!という印象を韓国だけではなく海外の観察者にも与えました。

亡命理由について、黄長燁は手記で北朝鮮の体制に義憤を覚えたため、独裁国家になっている国からの変革を図るためだと述べています。黄長燁は共産党体制よりも一歩進めた独裁化のためイデオロギー的な整備を行った当事者でもありました。このことから、おそらく北朝鮮内での権力闘争に敗れたために、保身を図って亡命したのだとも言われているほか、在中国朝鮮人の女性との不倫関係により立場が悪化したためとも言われているので、亡命の動機に関してはいろんなことを推測されています。

亡命してからの生活

韓国へ亡命してからは、ソウルを拠点に文筆業や評論家業として文筆をしているほかに、アメリカ合衆国を中心に金正日政権打倒を掲げて活動していました。

2004年2月に、ソウルにある支援者の事務所に赤ペンキで汚された黄長燁の写真が脅迫文と一緒に置かれるという事件がありました。亡命してから亡くなるまでの期間までずっと、ソウル市内にある自宅の住所は徹底的に秘匿していました。そして常に国家情報院職員と警察官によるボディガードを受けながら活動していたため、黄長燁を襲撃して暗殺することは、事実上不可能でした。黄長燁を襲撃できない代わりに、このように支援者が攻撃の対象となりました。

2006年12月21日には、黄長燁が会長を務めている自由北韓放送の事務所に「残されたのは死だけだ」という内容が書かれた脅迫文と赤い絵の具が塗られた黄の写真、そして斧などが入った小包が送りつけられる事件が起きています。この事件の犯人は、2008年9月27日に左翼系学生団体の韓国大学総学生会連合出身の運動家が警察に検挙されていますが、南北共同宣言実践連帯の事務室に対する家宅捜索でも脅迫と関連した文書が発見されています。

インタビューで、黄長燁は現在の北朝鮮とチュチェ思想の関係について「本来のチュチェ思想はマルクス・レーニン主義を北朝鮮の実情に合わせて朝鮮民族が主体的に革命運動を担うためのもので、金日成らの個人崇拝などは全く含んでいない。完全に歪められている」と日本のニュース番組のインタビューで語っています。

2010年4月4日から8日にかけてに日本を訪問していますが、この来日は北朝鮮から亡命する直前の1997年に来日してから実に13年ぶりの来日になりました。この来日を政府は非公式としていたため、特に日程の公開などは行いませんでした。

この頃には、もう高齢ということもあったのでしょうか。亡命したときのようなエネルギーはなくなっていて、以前は北朝鮮が崩壊するためのシナリオなど熱く語っていましたが、この時の来日の際には特別なことなど特に話すことはありませんでした。

4月に来日したから6ヵ月後の10月10日に、ソウル市内の自宅浴室ですでに息を引き取った状態で発見されました。毎朝5時から7時の時間に半身浴をするのが日課だったといいます。発見者は自宅を警備中の警察官でした。87歳で亡くなりました。

87歳という年齢でしたが、それでも命を狙われていたようで4月に来日した後の4月20日に、韓国警察当局は黄長燁の暗殺目的で活動していた、北朝鮮の朝鮮人民軍偵察総局のスパイ2名の逮捕を発表しています。

死ぬ間際まで心休まるときはなかったのかもしれません。

遺書

黄長燁の死亡したとの発表は、浴室で発見されてからの9日後の10月19日に、10月9日の午後に入浴中に心臓疾患で死亡したとみられるとソウル地方警察庁によって発表されました。遺体は10月14日大田(テジョン)国立顕忠院に埋葬されいます。

告別式では遺作の詩が公開されました。事実上の遺書にあたります。

「離別」

  • 退屈な夜は去り、空が明るくなりはじめたのに、地平線の黒い雲は近づき来る。
  • 永遠な夜の使いが訪れる。
  • 別れを告げる時間だと。
  • 永別の時間だと。
  • むなしい歳月との別れは、惜しくはないけれど、明るい未来を見ようとする弱さを慰める術はなく。
  • 愛する人々を、どうすればいいのか。
  • 背負って歩いて来た荷を、誰に任せて行くのか。
  • 慣れ親しんだ山河と引き裂かれた民族は、またどのようにして。
  • 時は過ぎ去り、残されたのは最期の瞬間だけ。
  • 遺恨なく、最善尽くし奉じよう。
  • 人生を包んでくれた祖国の、尊い志をかみしめながら。